学び続けることだけは諦めない

バブル崩壊後に生まれた若者視点で観る世の中。諦める教育を施されてきたが、学ぶことだけは諦めたくない。

書店の面白さ

 昔から本が好きで、本屋をみかけるとつい立ち寄ってしまう。大型書店から地方の個人経営の本屋さんまで様々。某南米のインターネット書店でここ数年は購入することも増えたが、最近は飽きてきている。それはなぜなのか少し考えてみた。

本屋に出向く理由

 これは本そのものが好きだから。本が並んでいるだけで癒やされるそんな感覚。本好きの方なら理解してくれると思う。最近の本はデザインもこっているのでそれを見るのも楽しみとなってきた。パラパラとめくり、お気に入りの本を探し出すあの時間が至高。本との出会いは人と同じで一期一会だと思っているので、その場で衝動買いしてしまうことも。

 また、本屋に行くことで、ニュースを新聞で得るときのような総覧性があることも大切だと思っている。自分の興味にかかわらず拾えるので、どんなことが世間で流行っているのか、トレンドを理解する手助けになる。本屋にも個性があり、どのような本をどのような配置で並べるか。また、どのような雰囲気でどのようなインテリアでコーディネートするかによっても本の見え方が変わってきて面白い。

 書店員さんのコメントはすごく好き。特に手書きのPOPやメッセージなど。あれをみれば心が癒やされるし、興味のない本でも手にとって見たくなるすごい効果がある。そこの店員さんがどんな思いで本を売っているかが伝わる場所が本屋だと思う。

 そして、なによりも本屋に行くと落ち着くというのがある。好きなものに囲まれているからというのはもちろんあるが、こちらから声をかけなければ話しかけてこない店員さん、ゆっくり静かなスペース、居心地の良い空間づくりへの配慮。様々なものが組み合わさってこその本屋なんだろうなと。また待ち合わせの場所として、時間を潰せるところもよい。

 インターネット書店になぜ飽きたのか

 ポチッとして買うことになぜ飽きたのか。とても便利でスムーズで、なおかつ安いことも多い。これ以上のないいいことが揃っているのだが、いかんせん無味乾燥なのだ。本がほしいというニーズには完璧に答えているが、本を購入するという行為から派生するものをすべて切り落としてしまっている。特に環境や情緒的な部分。

上にも書いたが、「落ち着く居場所」といった付随のお金にならない要素が削ぎ落とされてしまい、味気のないものになっていしまっている。だから、どうしても単調になってしまい飽きてしまう。

 また、立ち読みができないというのはかなりの欠点だと思う。ウェブ上でも中身を見ることができるが、「自分が見たい場所」「確認したい場所」の中は見れない。個人的には、気分でページを開いた場所で見て、確認し購入するというプロセスをとるので、中身がわからないというのは痛い。

 先ほど、人との出会いと同じと書いたが、会ってなんの話もせずにいきなりデートだの付き合ってだのしないのと同じで、本の著者と読むことで対話し、フィーリングに合うか、自分の欲しい情報を伝えてくれる人かどうかの見極めができることが大切だと思う。

こういった要素がかけてしまっているため、インターネット書店に飽きてしまったのかと感じる。

これから…。

それぞれの特色がある書店はもちろんのこと行き続けるが、逆にインターネット書店側もある程度開拓する必要があるのではないかと感じている。今までのように早く安く売るのではなく、付加価値をつけていき、そこで買わないと楽しくない経験を提供することができれば、オンラインで買うことにも意義がもたらされるのではないか。

そういった店舗を模索していきたい。

「社会課題を解決する」とはなんだろう

社会とは

 社会とはそもそもなんなのか。社会課題を解決する!という機運が高まっている中、この疑問がふと頭に浮かんだので調べて考えてみることにしました。

しゃかい【社会】


㋐ 生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与えあったりしている人々のまとまり。また、その人々の相互の関係。 「 -を形成する」 「 -の一員」 「全体-」
㋑ 同種の生物の個体間の相互関係や、それらのまとまり。 「ニホンザルの-」
② 同じ傾向・性質、あるいは目的をもつ人々のまとまり。 「上流-」 「都市-」
③ (自立して生活していく場としての)世の中。世間。 「学校を卒業して-に出る」
④ 「社会科」の略。 〔「同集落の住民の集まり」の意で中国の「近思録」(1176年)にある。英語 society の訳語として用いたのは福地桜痴とされ、「哲学字彙」(1881年)にも載る〕

出典 三省堂大辞林 第三版

 大辞林にはこのように記されています。今回考えたいのは、①㋐ の意味です。

 

少しシンプルに書き換えます。

【ある人間とある人間のまとまり。また、その人間同士の相互関係のこと】

くらいでしょうか。

 

社会課題とは

上記の社会の定義から考えると、「人間や人間関係の中で起こる課題」といったあたりでしょうか。このように考えると、「人」に意識が向いて初めて課題となります。その他のことは関係はしているので、従の関係にはあるが、主ではない。あくまで「人」が主となります。

そのため、「人」に興味が無いと、社会課題自体に興味をもつのはそもそも難しいのではないでしょうか。自分自身やその信頼する人間が関係していて(ステークホルダーとなっていて)はじめて興味をもつのかなと思います。やはり、なんだかんだで損得勘定で動いてしまうものかと。

こういった視点から捉えると、「社会課題を認識してもらう」のがいかに大変か。急激な変化なら皆気づくけど、緩やかな変化だと、変化しているのに気づいたらもう遅い。ガンと一緒ですね。早期から取り除かないとならない。

 

社会課題を解決する

さて、社会課題を解決するには、先程も書いたとおり認識するところから必要です。でも、それを認識してもらうというのが、なかなかに難しい。自分に関係ないですからね。一部の気づいた人だけが動きムーブメントになっても、結局の所広がらない。本当に困っている人に届かない。

そういった困っている人は、支援しているという情報がそもそもないから、見えないし、アプローチもできない。結局の所、多種多様な人が社会課題を正しく認識してもらう以外にない気がします。

たとえば、インフルエンサー。たとえば、普通のサラリーマン。たとえば、近所の人。そういったひとりひとりが課題を認識することで、ようやく、課題をもっている人が浮き彫りになるのかなと思います。

外に出て見える問題は、すぐに見つかります。すぐに問題になります。でも、見えない問題、心の中にある問題はまったくわからない。

そういった内向的な問題をもっと表にだすにはどうしたらいいのでしょうか……。

 

対話する、工夫する

今現在持ち合わせている課題解決方法としては、やはり「対話すること」また、伝え方を「工夫すること」ではないかなと思います。最近はだいぶ改善している気はしますが、行政が伝える手段としてもっているのは、広報誌やチラシ。ただ、デザインとして人に見てもらえないことが多いと思います。

そこで、そのデザインを工夫し、「おっ」っと思ってもらうことで、まずは、「気づいてもらう」ステップが必要なのかなと思います。また、「対話」をすることで、ホンネで話すことで、見えてくる問題があると思います。

でも、それには「言っても否定されないこと」と「言えるレベルの信頼関係」が必要です。それを構築し、人的資本として確保することが、人を助ける、社会課題を解決するということにつながっていくのではないかと考えています。

 

人工的に作られた自分から自然状態の自分へ

人工的につくられた自分とは

 居住地、人間関係、社会制度、時代背景…。このように生まれたときにもっていた自分から、年を重ねるにつれてだんだんといろんな要素が混じり合い、人は変化していく。でも、ふとこの変化に違和感を感じる時がある。それが、「自分らしく生きられていない」とふと思うとき。特に根拠はないがそう思う。その気持ちが生じる元はなんなのだろうか。

 よく感じるのは、旅行したとき。見知った土地、見知らぬ土地に関係なく、現地の人と喋って、落ち着いていられるとき。このときにふとこの場こそ自分の居場所だと感じることがある。相手が話すペース、抑揚のつけかた、感じる心持ち。それらが自分と親しいと特に思うのかも知れない。

 けれども、普段の生活では、自分と合わない人と喋り、自分に適さないことをしつつ、居心地が良いとはいえないコミュニティで生活をする。そこには摩擦が度々発生し、それが熱を帯びて「あつっ!」と感じたときが、ストレスを感じるときなのかもしれない。そして、摩擦熱で火傷してしまうことが、精神が病んでしまうということなのだろうか。熱くなっていることに敏感で、すぐにそれを冷ますことのできる人。これがストレスに強いひとなのだろうか。

 こういった要素で構成されている自分のことを人工的につくられた自分とよぶことにした。

 

対して、自然状態の自分とは

 自然状態とはどういう状態のことを指すのだろうか。別にルソーやロックのように人間全体の自然状態を論じる気はない。あくまでこれは自分が心地よくいられる場所のことだと思っている。これが人間にとって最大の幸福なのではなかろうか。この状態になっていると、普段の自分ではしない動きをしたりする。普段から運動のしない人が「身体が軽くなったので、少しでかけてくる」などフットワークが軽くなったりする。普段怒りっぽい人が「まぁまぁ」と言って、なだめたりする。そのような人が大勢いる社会が理想だと思っている。

 肩の力が抜け、他者や自分の感情や行動に寛容になれる。そんな状態こそが、自然状態の自分なのかもしれない。

 

どうすれば自然状態に近づけるのか

 ここで気になるのは、どうすれば近づけるのか。これは自分の中でも答えはでていない。どうすればなれるのだろうか。だけれども、このようなことを考えた上で、理想の肩の力が抜けた状態を目指せば少しは変わっていくものだと信じている。

 

 「まぁ、いいか」ができれば無問題なのだが。と、自分を戒めつつ締めくくりたい。

インプットとアウトプット

インプットするということ

 これは知識を仕入れることだと思います。ただ、最近気になるのは、どうすれば自分の中で腑に落ちた上で、納得できた上で、アウトプットにつなげることができるかということ。「早く確実に」も大事ですが、自分の中で落とし込めていないと、それはあくまで他人の意見であり、他人の受け売りでしかないですよね。知識を知識として、流しているだけ。無加工です。

 

 この知識を自分の中で納得して落とし込む作業が、自分の中でそのインプットしたことを自分ごととして話したり、自分の意見として話すことだと思います。そこまで、いくと自分の言葉で話すことができるのではないでしょうか。知識を加工商品として売り出す。そういったことが今の時代求められている気がします。他の時代は生きてないので、知りません!w

 

 言葉というものは、相手に対してものすごい影響力を与えます。マイナスの言葉がけ、たとえば、中傷したり、ネガティブな発言をすること。こういったことは相手の行動する気までそぐことができます。自分が攻撃されている場合の防御戦術としては有効ですが…。

 逆に、プラスの言葉がけ、ほめたり、前向きな発言をしたりすること。こうすると相手に行動してもらったり、自分に対して、相手が好印象を抱いてくれたりします。

 いくら本心で違うことを思っていても、伝わるのは言葉です。このようにSNSが発展してきた世の中であれば、なおさら言葉の影響力は強いです。また、テクノロジーが発達し、機械的に言葉が生み出されるようになると、必要なのは先程あげた、加工されていない生の商品ではなく、加工された商品ではないでしょうか。その人なりの価値がついていないと、他者とまったく同じものであり、価値が薄くなってしまいます。

 

でもアウトプットするということ

  でも、いざアウトプットしようと思っても、思うようにいきません。今までインプットにこだわり続けていた身としては、「どのように」アウトプットしていいかわかりません。他人に伝わるように伝えるのもアウトプットではありますが、それは大切な何かを忘れているような気がしてならない。ビジネス的には正しいと思うのですが、心の機微や感情などを考慮すると、それとはまた違ったものがあるのでしょうか。

 

 伝えるのではなく、表現する媒体としてであれば、受け手がどうかも大切ですが、自分がどのようなことを表現したいかも大切だと思います。受け手それぞれがそれぞれに解釈するというのもまた面白いものだと思います。

 

 なので、どのようにアウトプットしたいかを自分がまず考えてみる。自分を大切にするか、相手を大切にするか、それもまた時と場合で変わると思います。そのときどきで考えてからアウトプットする。

 

 ただ、アウトプットについて、どうアウトプットするのが面白いとか、どうするのが効率いいとかそういった意見をもっと読まないといけないと昨今は感じていますが…w

 

苦労することは経験を積むことはできるが偉くはない。

SNS等を見ていると、よく若いうちに苦労しとけ。

 

という意見をよく耳にします。これは事実だと思います。

苦労するからこそ経験が積まれるし、それを活かそうという気にもなる。

 

ただ、苦労することが偉いわけではありあません。

自分たちは今の状態になるために、こんだけのことをやったのに今の若いものはそれをやりたがらないからけしからん!

 

そんな発想じゃ誰も幸せになりません。楽をすることのなにが悪いのかわかりません。

そして社会は発展しません。発展するのが正しいかどうかはわかりませんが、発展することで人間が幸せになってきていることは事実です。

テクノロジーが向上することで、1日かかっていたことが、今や数時間や数分。もしくは、時間をかけずにできるようになってきています。

 

それを、使わずしてなんたるか。

それはテクノロジーを発見し、向上させてきた先人たちに失礼ですよね。

価値観は人それぞれです。それを人に強制させるのは間違っている。そう思います。

 

また、けしからん!って発想は、「妬み」などから生まれている発想ですよね。

素直に羨ましいといえばいいのに、ひねくれてしまっているからかやめさせようとする。あなた達の感情に振り回されたくはない。

 

人の成長を素直に喜び、技術の発展を素直に受け入れ、そして、次世代への発展へつなげていく。そんな社会になればいいですね。人間なので難しいかもしれないですが。

 

苦労することはとてもいい経験になり財産になります。それは事実です。

しかし、その苦労をみんなに分かち合えば、集団知として、苦労を経験にできます。そして、それを本に書き記せば、歴史として苦労を分かち合えます。

 

苦労することは大切です。そして、苦労をした人間が立場が向上していくこともよくあることです。ただ、勘違いをしてはいけないのは、苦労をすることがえらいこととしてしまうことだと思います。

 

苦労を分かち合った結果、苦労しなくていい社会がくる。これが大切なのではないでしょうか。なぜ、自分が苦労したから他人も同じ苦労をしないと気がすまないとなるのか。理解に苦しみます。

 

どうせ苦労するなら、そこから発展した先で苦労してほしい、そしてそれを分かち合い、人類共通の財産とするべきだと思っています。

 

 

 

 

合理的に選択することは正しいのか。

なにか選択をするときに、合理的に考えることは本当に大切だと思っています。しかし、合理的に選択することは果たして正しいのか。最近はかなり疑問に思いつつあります。

 

「選択」と「考える」の違い……わかりづらいですかね。

個人的に考えているのは、

 

「選択」・・・決めること、そして行動すること

「考える」・・・もっとも合理的な手段を探すこと、選択の材料にすること

 

だという認識です。

 

この2つの違い。なにが問題になるかというと、合理的に選択すると、「意欲」がわかない問題が自分の中で発生しています。

 

たとえば、就職先などで、

「この環境でこの人達の間でこの業務をやれば、自己の成長が認められると考えられる。だから、ここで働こう」

となったとします。

 

しかし、ここに「意志」である「自分はやりたい!」がかけていると、やっている途中でとてつもない虚無感に襲われ始めてきました。なんのためにやっているのだろう。なんのために生きているのだろう。自分の居場所ではないのではないか。そのような意識が芽生え始めています。

 

なので、あくまで考えることは大切ですが、選択するとなると「もっとも合理的」ではなく様々なビジネス書籍で言われているように「やりたい!」で探したほうがいいのかもしれません。

 

なので、「やりたい!」の中でもっとも合理的な選択をする。このことが求められているのかもしれません。自分としては今後は自分の感情も加味しながら選択していかないとなーってつくづく思いました。

 

合理と感情それぞれどちらが欠けてもいけないもの。どちらにいいも悪いもない。感情論はあまり好きではなかったので避けていましたが、感情というものをもう一度見直してみるのも悪くないかもしれません。

 

 

価値観を言語化する大切さ

こんばんは、青葉あまねです。

 

 昨今は、価値観が多様化する時代と言われて長いですね。

 個人的には、価値観が多様化しているのではなく、インターネットなどの技術進化によって個人の意見が目に見えるようになってきただけだと思っています。「みんな同じだと思っていた」幻想と勝手に呼んでいますw

 

 さて、その価値観なのですが、最近、言語化していかないとわからないなと思うことが増えました。自分がした選択には必ず価値観が反映されているはずなのですが、なぜその選択したのかを明確に言葉にすることができていない。なので、最近はなぜ選択したのかをメモするようにしています。

 

 特に自分の人生や人に関わることは言語化するようにしています。人生や人付き合いは一回の選択で終わるものではなく、継続して行われており、さらに言うと他人に影響があったり、未来の自分に対してとてつもない影響があったりするものだと思っています。

 

 そのように継続して選択の影響下にいると、「なぜこの選択をしたのだろう」ということが頭の中に浮かんできます。そこで、その選択が明確であれば、人に説明もしやすいですし、だから、自分はこうしていると自信をもつことができます。

 

 しかしながら、あやふやなままだと、なぜこの選択をしたのだろう?なぜ今こうしているのだろう?と疑問が疑問を産み、悩みの大洋から抜けれなくなってしまうことがあることに最近気づきました。かなり遅いですがw

 

 まぁ、遅くても気づくことはできたので、これを改善するべく、「言語化する」という作業を今行っています。そうしていくと自分は人付き合いにおいてこういう判断をする傾向にあるんだなどとわかってきます。たとえば、自分は「一度できたつながりを大切にする」や、「自分を慕ってくれる人に対してできることはすべてする」というポリシーをもっていることに気づきました。

 

 だからこそ、人付き合いの幅は広げないが、できたつながりはできるかぎり継続させる。だから、友達の数は少なくとも、信じることのできる人間は多い。という現状も把握できるようになりました。頭の中でわかりきっていたことでも、言葉にしてみると、重みが違ってくるように感じます。

 

 こういったことを繰り返していけば、いずれ自分の価値観と上手く付き合っていくことができ、それが自分とうまく付き合っていくということにつながるのだと感じています。

 

そして今は、この言語化していく過程がとても楽しくなっています。また、これによって、自分だけでなく、他者との違いを認識しやすくなり、互いに生きやすくなればと勝手に思っています。

 

 

青葉あまね

自己責任論

こんばんは、青葉あまねです。

 

 「自由」には「責任」が伴う。これに関して異論のある人は少ないと思います。私自身もずっと自己責任論の支持者でした。ただ、最近少し考えが変わってきています。

 

 この自己責任論は人々に対して「同じ量の自由が与えられていること」が前提になっていないか?

 

 という疑問が生じてきています。生まれ持った才能は別にしても、生育環境、周辺の人間関係など自分ではどうすることもできないところで自由が制限されていることを今更ながら思い返しています。

 

 よく、「そうなったのはあなたがそのように選択したから」という意見を見かけますが、果たして本当に選択できたのでしょうか?そう選択せざるを得ない状況下に合ったり、その選択肢しか知らなかったりしたのかもしれない。そう考えていくと、完全な自己責任など存在しないのじゃないかと思い始めています。

 

そのような人が「自己責任」という言葉に縛られ、自己卑下してしまう状況をここ最近ずっとみてきました。お金があればもちろん選択肢も増えるし、それだけではなく、親の人脈でもずっとずっと変わります。社会関係性資本の考えですね。

 

そういった背景を無視して、すべて「自己責任」で片付けてしまうのは、真に自由で平等な社会を構築する上で、弊害となってしまうのではないかと思っています。このようなことを考えていると、散々自分が口にだして言ってきた自己責任論は訂正しなければならないなーっと思っています。

 

これとは逆に「選択肢をもつ自由な立場にいるもの」が責任を果たさないということも増えてきているのではないでしょうか。

 

フランス語で「noblesse obligeノーブレス・オブリージュ)」という言葉があります。「身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある」という意味です。

欧州での道徳観ではありますが、日本でも侍がもつ志と同じではないでしょうか。

 

しかし、廃刀令により、士族となり、昭和、平成となっていく中で、資本主義を形だけ真似たことで大本のこの部分が抜け落ちてしまっているのではないかと感じています。ただの拝金主義になってはいないでしょうか。

 

渋沢栄一のいう「士魂商才」を彷彿とさせるCSRなどは最近流行ってはいるのはいいことだと思います。ただ、なぜそれをしているのかを知った上でしてほしいかなとも思います。

 

現代ではこれを「自由であるものはそれに応じて果たさなければならない責任と義務がある」と言い換えてもよいかと思います。逆に義務ばっかり先行してしまう人は自由を訴えてもいいと思います。その逆の人は義務を果たしましょう。それくらいがちょうどいい社会になるのではないでしょうか。 

 

話がかなり壮大になってしまいましたが、「自由」を愛する国民として少し気がかりなところです。

 

お金持ちは金払え!って訳ではないですが、せめてタンスの中にしまうくらいなら、寄付したり、地域活動に当てたりしてもよいのではないでしょうか。

 

青葉あまね

 

 

ジェネレーションギャップとその背景

こんにちは。

青葉あまねです。

 

今回はこのジェネレーションギャップについて。

ジェネレーションギャップgeneration gap)あるいは世代のずれ(せだいのずれ、世代間のずれ)は、世代時代)による文化価値観思想などの相違のこと。

Wikipedia(日本語版) 

とあるように、各世代(5年くらいの間隔?)での価値観の相違を言いますが、これはそれぞれの時代で、各世代が育った背景が異なることにより常識がずれていることに起因しているのでは?という疑問から。

よく聞くのは、

「最近の若者は!」

 VS

「おっさんはこれだから……」

などといったお互いがお互いを貶しあうことばかり。確かに相手の時代が羨ましかったり、自分の常識に反することをされたりして腹が立ちます。普段生活していても、「どうしてこんな発想するのか」と思うことが多々あります。 ただ、これを相手の立場に立ってみると少し同情心も芽生えるのかなと思っています。

 

そこで、自分の世代(ポストさとり世代)と、僕たちともっとも価値観が合わない世代(団塊の世代)を比べてみます。

 

まず、自分たちの世代から。

  • バブルが崩壊後生まれのため、不況しか知らない。(今が好景気と言われても理解できない)そのため、ものを親に買ってもらう習慣があまりなく、「我慢しなさい!」と常に抑圧されている傾向。
  • 少子化がはじまり、ひとりっこが増え始めているが、まだまだ兄弟がいるところが多かった。(なので、今のように子どもに手厚い支援まではない)
  • 受験戦争はそんなに激しくなく、ある程度勉強すればある程度のところにいくことができる。
  • 阪神大震災前後生まれのため、人の暖かさを強調する環境で育っている。
  • 不審者報道が過激にされていた時期で、外に出ることは常に危ない危ないと社会が過保護に育ててきた。
  • ゆとり教育真っ盛りの時期に生まれているので、基本的に個性を大切にする。自分のやりたいことがないから不安。
  • インターネットが当たり前で、携帯電話は中学生から使いこなしている。SNSも同様の時期に流行り始めるため、趣味に合わない人と付き合う必要性を感じない。

簡単に背景をあげるとこのような感じかなと。

 

で、対して、団塊の世代

  • 戦後すぐくらいに生まれて、戦争を経験している親に育てられる。
  • 第一次ベビーブームのため、ひとつのクラスに50〜60人くらいいた。
  • 大学進学率は低く、高卒で働く人も多かった。就職時は高度経済成長の真っ只中で、集団就職をしている。
  • 学生運動を経験し、安保闘争などに参加している。
  • 企業にお金があったので、社宅が多く、またニュータウン建設も進んでいる。
  • 教育は学齢期の画一化教育に加え、上意下達のトップダウン方式。年功序列の終身雇用が当たり前。
  • 会社が人生の世代なので、他のコミュニティとのつながりが薄い。

 

と、こんな感じでしょうか。

まぁ、調べる過程で良くも悪くも正反対なんだなと認識できました。

 

そりゃ、価値観合わんわ!

 

ここで、団塊の世代に歩み寄ってみます。

 

  • 親はかなりの個性を持った人や、0から1をつくっていった人ばかりな上、同級生の人数は今の倍から3倍近くいるので、個性をだすことは難しい!
  • 金の卵とちやほやされる上に、マジョリティでもあるので、自分が社会をつくってきた!という自負ができてくる。
  • 自分が努力すれば会社が認めてくれる上に、倒産する心配もないので、全力で会社に人生を捧げることができる。
  • 現在会社をやめなければならないが、会社が倒産する上に、わけのわからない技術まで登場してきて不安。このまま引退してもいいのだろうか、いや、自分のアイデンティティでもあるこの会社で働きたい。
  • 地域に出ても今までの上司がとりしきっているだけなので、別に地域でどうのこうのしたいとは思わない。引退してまでおべっか使いをするのはもうごめんだ。

 

と、まぁ、こうかくと少しは納得できる部分もあるわけです。

上の世代が不況にして、ゆとり教育もはじめて今の自分があるのに、なぜ自分たちのせいにされるのかわからない。気力もわかない。などといったこととも連動するのではないですかね。

 

基本的に、今の社会はみんな「不安」なんですよね。一億総不安。

そんな中でどう生きていけばいいか迷うのは当然というかなんというか。

僕たちは「今から」選択できますが、上の世代は選択肢がかなり限られます。

その点で、不安度はさらに高そうですよね。意外と僕たちよりも不安になってそうな……。

 

抱えている問題は「不安」なので、喧嘩せずに協力していきたいものです 笑

 

青葉あまね

 

人生における電撃戦と持久戦

みなさま、こんばんは。

青葉あまねです。

 

自分の得意なことや長所を考えたことはありますか?

今回はその話の延長線上ですが、電撃戦や持久戦という言葉があります。

 

第二次世界大戦に遡るとわかりやすい例になるのですが、

 

ドイツはフランスに侵攻し、あっという間の速度で降伏まで持ち込みました。当時、最新鋭だった技術、戦車や軍用機などの活用により、このようなことが可能になりました。数年間の間だけですが、ヨーロッパに新しい秩序をもたらしました。

 

French invasion of Russia collage.jpg

また、ドイツと戦ったソビエト連邦ロシア帝国)では、ナポレオンの時代も含めて、侵攻を長引かせ、ドイツやフランスをじわりじわりと追い詰めていきました。冬将軍や広大な領土がソビエト連邦を救ったともいいますが、勝利したのは事実です。なにを勝利とするかはこの際置いておきますが。

 

このように勝利の仕方だけを切り取ったとしても、ドイツ、ソビエトの場合だけで2パターンあります。これは人生戦略を考える上でも有用な考え方になるのではないか。と、先日ふと思いました。

 

たとえば、勢いで押して契約を勝ち取るのが得意な場合、どこに戦力を配置して、どのように攻めるのかが効果的なのかを考えると思います。これは、電撃戦の考え方が参考になるのではと思っております。対して、コツコツと努力して、相手のスタミナ(補給)が切れたところで盛り返していく。これも戦略になるのではないかと思い、これは持久戦の考え方が参考になるのではないかと思っています。

 

勝ち方は無数にあるので、その人個人が、自分がどちらに向いているのかを考えながら戦略を練っていくのが人生においても必要になるのではないでしょうか。

 

今後、今まで敷かれていたレールは万人に合うことはなくなり、自らレールを敷いていかなければならなくなった今。こういった過去の事例を引っ張り出すことで、自分の得意に合わせた戦略を練ることがとても必要になると感じています。

 

これもひとつの歴史から学ぶということであり、自主的に自立的にオーダーメイドの人生を歩んでいくことに繋がるのですかね。いま現状ではそのように感じます。

 

他にも、0から1を作る仕事は、乱世で国を建国するに等しいのではないかということ。1を10にする仕事は建国した国を維持していくこと。こういった考えもできると思います。貞観政要の「創業と守成」の話がまさにこういうところにも当てはまるのでしょうね。

 

自分の長所を判別するのは難しいですが、ひとつひとつ地道に一歩をすすめていきたいです。

 

青葉あまね