学び続けることだけは諦めない

バブル崩壊後に生まれた若者視点で観る世の中。諦める教育を施されてきたが、学ぶことだけは諦めたくない。

「社会課題を解決する」とはなんだろう

社会とは

 社会とはそもそもなんなのか。社会課題を解決する!という機運が高まっている中、この疑問がふと頭に浮かんだので調べて考えてみることにしました。

しゃかい【社会】


㋐ 生活空間を共有したり、相互に結びついたり、影響を与えあったりしている人々のまとまり。また、その人々の相互の関係。 「 -を形成する」 「 -の一員」 「全体-」
㋑ 同種の生物の個体間の相互関係や、それらのまとまり。 「ニホンザルの-」
② 同じ傾向・性質、あるいは目的をもつ人々のまとまり。 「上流-」 「都市-」
③ (自立して生活していく場としての)世の中。世間。 「学校を卒業して-に出る」
④ 「社会科」の略。 〔「同集落の住民の集まり」の意で中国の「近思録」(1176年)にある。英語 society の訳語として用いたのは福地桜痴とされ、「哲学字彙」(1881年)にも載る〕

出典 三省堂大辞林 第三版

 大辞林にはこのように記されています。今回考えたいのは、①㋐ の意味です。

 

少しシンプルに書き換えます。

【ある人間とある人間のまとまり。また、その人間同士の相互関係のこと】

くらいでしょうか。

 

社会課題とは

上記の社会の定義から考えると、「人間や人間関係の中で起こる課題」といったあたりでしょうか。このように考えると、「人」に意識が向いて初めて課題となります。その他のことは関係はしているので、従の関係にはあるが、主ではない。あくまで「人」が主となります。

そのため、「人」に興味が無いと、社会課題自体に興味をもつのはそもそも難しいのではないでしょうか。自分自身やその信頼する人間が関係していて(ステークホルダーとなっていて)はじめて興味をもつのかなと思います。やはり、なんだかんだで損得勘定で動いてしまうものかと。

こういった視点から捉えると、「社会課題を認識してもらう」のがいかに大変か。急激な変化なら皆気づくけど、緩やかな変化だと、変化しているのに気づいたらもう遅い。ガンと一緒ですね。早期から取り除かないとならない。

 

社会課題を解決する

さて、社会課題を解決するには、先程も書いたとおり認識するところから必要です。でも、それを認識してもらうというのが、なかなかに難しい。自分に関係ないですからね。一部の気づいた人だけが動きムーブメントになっても、結局の所広がらない。本当に困っている人に届かない。

そういった困っている人は、支援しているという情報がそもそもないから、見えないし、アプローチもできない。結局の所、多種多様な人が社会課題を正しく認識してもらう以外にない気がします。

たとえば、インフルエンサー。たとえば、普通のサラリーマン。たとえば、近所の人。そういったひとりひとりが課題を認識することで、ようやく、課題をもっている人が浮き彫りになるのかなと思います。

外に出て見える問題は、すぐに見つかります。すぐに問題になります。でも、見えない問題、心の中にある問題はまったくわからない。

そういった内向的な問題をもっと表にだすにはどうしたらいいのでしょうか……。

 

対話する、工夫する

今現在持ち合わせている課題解決方法としては、やはり「対話すること」また、伝え方を「工夫すること」ではないかなと思います。最近はだいぶ改善している気はしますが、行政が伝える手段としてもっているのは、広報誌やチラシ。ただ、デザインとして人に見てもらえないことが多いと思います。

そこで、そのデザインを工夫し、「おっ」っと思ってもらうことで、まずは、「気づいてもらう」ステップが必要なのかなと思います。また、「対話」をすることで、ホンネで話すことで、見えてくる問題があると思います。

でも、それには「言っても否定されないこと」と「言えるレベルの信頼関係」が必要です。それを構築し、人的資本として確保することが、人を助ける、社会課題を解決するということにつながっていくのではないかと考えています。