学び続けることだけは諦めない

バブル崩壊後に生まれた若者視点で観る世の中。諦める教育を施されてきたが、学ぶことだけは諦めたくない。

自己責任論

こんばんは、青葉あまねです。

 

 「自由」には「責任」が伴う。これに関して異論のある人は少ないと思います。私自身もずっと自己責任論の支持者でした。ただ、最近少し考えが変わってきています。

 

 この自己責任論は人々に対して「同じ量の自由が与えられていること」が前提になっていないか?

 

 という疑問が生じてきています。生まれ持った才能は別にしても、生育環境、周辺の人間関係など自分ではどうすることもできないところで自由が制限されていることを今更ながら思い返しています。

 

 よく、「そうなったのはあなたがそのように選択したから」という意見を見かけますが、果たして本当に選択できたのでしょうか?そう選択せざるを得ない状況下に合ったり、その選択肢しか知らなかったりしたのかもしれない。そう考えていくと、完全な自己責任など存在しないのじゃないかと思い始めています。

 

そのような人が「自己責任」という言葉に縛られ、自己卑下してしまう状況をここ最近ずっとみてきました。お金があればもちろん選択肢も増えるし、それだけではなく、親の人脈でもずっとずっと変わります。社会関係性資本の考えですね。

 

そういった背景を無視して、すべて「自己責任」で片付けてしまうのは、真に自由で平等な社会を構築する上で、弊害となってしまうのではないかと思っています。このようなことを考えていると、散々自分が口にだして言ってきた自己責任論は訂正しなければならないなーっと思っています。

 

これとは逆に「選択肢をもつ自由な立場にいるもの」が責任を果たさないということも増えてきているのではないでしょうか。

 

フランス語で「noblesse obligeノーブレス・オブリージュ)」という言葉があります。「身分の高い者はそれに応じて果たさねばならぬ社会的責任と義務がある」という意味です。

欧州での道徳観ではありますが、日本でも侍がもつ志と同じではないでしょうか。

 

しかし、廃刀令により、士族となり、昭和、平成となっていく中で、資本主義を形だけ真似たことで大本のこの部分が抜け落ちてしまっているのではないかと感じています。ただの拝金主義になってはいないでしょうか。

 

渋沢栄一のいう「士魂商才」を彷彿とさせるCSRなどは最近流行ってはいるのはいいことだと思います。ただ、なぜそれをしているのかを知った上でしてほしいかなとも思います。

 

現代ではこれを「自由であるものはそれに応じて果たさなければならない責任と義務がある」と言い換えてもよいかと思います。逆に義務ばっかり先行してしまう人は自由を訴えてもいいと思います。その逆の人は義務を果たしましょう。それくらいがちょうどいい社会になるのではないでしょうか。 

 

話がかなり壮大になってしまいましたが、「自由」を愛する国民として少し気がかりなところです。

 

お金持ちは金払え!って訳ではないですが、せめてタンスの中にしまうくらいなら、寄付したり、地域活動に当てたりしてもよいのではないでしょうか。

 

青葉あまね