学び続けることだけは諦めない

バブル崩壊後に生まれた若者視点で観る世の中。諦める教育を施されてきたが、学ぶことだけは諦めたくない。

人工的に作られた自分から自然状態の自分へ

人工的につくられた自分とは

 居住地、人間関係、社会制度、時代背景…。このように生まれたときにもっていた自分から、年を重ねるにつれてだんだんといろんな要素が混じり合い、人は変化していく。でも、ふとこの変化に違和感を感じる時がある。それが、「自分らしく生きられていない」とふと思うとき。特に根拠はないがそう思う。その気持ちが生じる元はなんなのだろうか。

 よく感じるのは、旅行したとき。見知った土地、見知らぬ土地に関係なく、現地の人と喋って、落ち着いていられるとき。このときにふとこの場こそ自分の居場所だと感じることがある。相手が話すペース、抑揚のつけかた、感じる心持ち。それらが自分と親しいと特に思うのかも知れない。

 けれども、普段の生活では、自分と合わない人と喋り、自分に適さないことをしつつ、居心地が良いとはいえないコミュニティで生活をする。そこには摩擦が度々発生し、それが熱を帯びて「あつっ!」と感じたときが、ストレスを感じるときなのかもしれない。そして、摩擦熱で火傷してしまうことが、精神が病んでしまうということなのだろうか。熱くなっていることに敏感で、すぐにそれを冷ますことのできる人。これがストレスに強いひとなのだろうか。

 こういった要素で構成されている自分のことを人工的につくられた自分とよぶことにした。

 

対して、自然状態の自分とは

 自然状態とはどういう状態のことを指すのだろうか。別にルソーやロックのように人間全体の自然状態を論じる気はない。あくまでこれは自分が心地よくいられる場所のことだと思っている。これが人間にとって最大の幸福なのではなかろうか。この状態になっていると、普段の自分ではしない動きをしたりする。普段から運動のしない人が「身体が軽くなったので、少しでかけてくる」などフットワークが軽くなったりする。普段怒りっぽい人が「まぁまぁ」と言って、なだめたりする。そのような人が大勢いる社会が理想だと思っている。

 肩の力が抜け、他者や自分の感情や行動に寛容になれる。そんな状態こそが、自然状態の自分なのかもしれない。

 

どうすれば自然状態に近づけるのか

 ここで気になるのは、どうすれば近づけるのか。これは自分の中でも答えはでていない。どうすればなれるのだろうか。だけれども、このようなことを考えた上で、理想の肩の力が抜けた状態を目指せば少しは変わっていくものだと信じている。

 

 「まぁ、いいか」ができれば無問題なのだが。と、自分を戒めつつ締めくくりたい。